第二十一話 ◆ 宮本屋の経営改革

イメージ 1

今回から宮本屋窯を扱っていきます。
画像は第九話でも触れた、山代の九谷焼窯跡展示館の覆屋内。
吉田屋の窯跡であるのと同時に、宮本屋の窯跡でもあります。

宮本屋窯は天保三年(1832年)、吉田屋の閉窯の翌年から、
山代の窯をそのまま引き継いでスタートしました。
経営にあたったのは、吉田屋の番頭だった宮本屋宇右衛門。
設備的にも経営的にも、まさに吉田屋直系の後継者です。

ところが、宮本屋窯の製品スタイルは大変身を遂げます。
吉田屋とは全く似ても似つかない「赤絵細描」です。

これは決して行き当たりばったりの変身ではありません。
宮本屋宇右衛門の強い決意に基づいていたことは明らかです。
なぜなら、彼はスタッフの総入れ替えを断行しています。

絵付け主任は飯田屋八郎右衛門。素地主任は木越八兵衛。
下っ端の職人についてはわかりませんが、
少なくとも吉田屋窯の主役たちは、
誰も宮本屋窯に残っていません。

窯自体がなくなったわけではなく、継いだ経営者も
吉田屋出身者なのだから、陶工をそのまま残し、
吉田屋スタイルの製品を作りつづけることはできたはず。

なぜ宮本屋宇右衛門は、そうしなかったのか。