第一五〇話 ◆ 「色」を考えるには

古九谷論争は、一般的には1990年代初頭に
伊万里説で決着したと言われています。
しかしその後も研究や発掘は進み、有田でも九谷でも
次々と新しい事実が判明しています。
 
一番重要なのは、2000年代に入ってから双方で
上絵窯の跡が発見されたことです。それまでは、
素地を焼く登り窯しか見つかっていませんでした。
 
いま古九谷を考えるならば、
そうした最新の成果を踏まえなければなりません。
しかし研究者ならともかく、
一般レベルでは1990年ごろの古い前提のまま
「古九谷は全部伊万里なんでしょ?」
で済ませているのが現状ではないでしょうか。
 
この稿では“奇跡の五色”がどこで生まれ、
使われたのかを考えています。
 
実はその観点から言うと、
80年代以前の議論はあまり参考になりません。
もっぱら素地論に終始していて、
「色」は関係ないからです。
登り窯しか発掘されていなかったのだから
当然のことです。
 
当時なぜか色絵の付いた陶片も、少し見つかりました。
特に山辺田窯の青手陶片は「色絵古九谷も全て伊万里
の決定的証拠のように言われました。
 
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図録「古九谷」2004年 出光美術館 より
 
一部で批判されている通り、
これは色絵と無関係な登り窯で見つかっている上、
「表面採集品」です。埋まっていたのではなく、
地表に散らばっていました。
同窯の調査報告書に明記されています。
 
本来は物証として扱えるものではありません。
しかし見た目の分かりやすさからか、
今も書籍や図録に載りつづけています。
 
“奇跡の五色”を探すべきは、
登り窯ではなく上絵窯です。