第三十八話 ◆ 粟生屋源右衛門の夢
あえて大胆な想像をするならば、
あの素晴らしい吉田屋後期の青手作品は、
粟生屋源右衛門にとって、必ずしも
理想とするものではなかったかも知れません。
あの素晴らしい吉田屋後期の青手作品は、
粟生屋源右衛門にとって、必ずしも
理想とするものではなかったかも知れません。
前話で鼠素地のことを書きながら、そんなことを考えました。
初期の素地は、ほとんどが鼠素地だった吉田屋。
しかし山代への移転後は、
白い素地を志向するようになりました。
完全な磁器は作られませんでしたが、
鍋屋丈助の洒脱な絵ともあいまって
初期と大きく雰囲気の違う作品が生み出されました。
それは青手古九谷の模倣を脱し、
吉田屋オリジナルと言っていい画期的な展開でした。
しかし山代への移転後は、
白い素地を志向するようになりました。
完全な磁器は作られませんでしたが、
鍋屋丈助の洒脱な絵ともあいまって
初期と大きく雰囲気の違う作品が生み出されました。
それは青手古九谷の模倣を脱し、
吉田屋オリジナルと言っていい画期的な展開でした。
しかし、吉田屋窯立ち上げの中核メンバーだった源右衛門は
それをどんな思いで見ていたのか。
それをどんな思いで見ていたのか。
事実としてはっきりしているのは、
20年の時を経て源右衛門が関わった松山窯などの青手は、
鼠素地が使われ、大胆な絵を作品の中心にすえる作風だった
ということです。それは青手古九谷への回帰に見えます。
20年の時を経て源右衛門が関わった松山窯などの青手は、
鼠素地が使われ、大胆な絵を作品の中心にすえる作風だった
ということです。それは青手古九谷への回帰に見えます。
源右衛門の夢は、やはり吉田屋の復活ではなく、
青手古九谷の継承だったと自分は見ます。
三代徳田八十吉氏は、次のようなことを言っています。
紫に関しては、確かに松山窯の方が古九谷に近いと思います。
青手古九谷の継承だったと自分は見ます。
三代徳田八十吉氏は、次のようなことを言っています。
「吉田屋窯の色は、古九谷釉薬を再現する過渡期の色である。 蓮代寺窯、松山窯の作品を見ると古九谷の色に限りなく近い。 ここに至って古九谷風釉薬は完成した」。 (「九谷再興の陶工 粟生屋源右衛門」2008年 小松市立博物館編 p97)。吉田屋の色が“過渡期”かどうかはともかく、
紫に関しては、確かに松山窯の方が古九谷に近いと思います。
※画像差し替え 2011/11/01