第一六九話 ◆ 改めて素地について
1660年代以降の“奇跡の五色”作品の存在について、
第一六〇話では、描かれている絵のソースなどから「可能性はある」と考えました。
上の2点。作風はだいぶ違いますが、色調は同じなのがわかると思います。
どちらも“五色”を使った「古九谷」です。
左の中皿の高台は、初期伊万里をほうふつとさせます。
1640年代、遅くても1650年代の、正に有田で“五色”が使われていた時代の素地でしょう。
1640年代、遅くても1650年代の、正に有田で“五色”が使われていた時代の素地でしょう。
一方、右の小皿はどうでしょうか。
高台径の大きさ、削り出しの鋭さなど、技術が大きく進んでいることが伺えます。
高台径の大きさ、削り出しの鋭さなど、技術が大きく進んでいることが伺えます。
注目すべきは、縁が立っている器形です。
伊万里を時代ごとに網羅する「柴田コレクション総目録」では、これに近い縁立ちの丸小皿は、染付だと1660年代~70年代の製作とされています。
伊万里を時代ごとに網羅する「柴田コレクション総目録」では、これに近い縁立ちの丸小皿は、染付だと1660年代~70年代の製作とされています。
(なぜか色絵だと1650年代~60年代表記になる)。
繰り返しますが、1660年ごろ以降、有田に“五色”の痕跡はありません。
右の小皿が1660年代~70年代の有田素地であれば、絵付けは加賀ということになります。
その可能性は十分ある、と自分には思えるのですが…。
第一六八話 ◆ 仮説④ 加賀での生産
1660年ごろを最後に、加賀藩(と大聖寺藩)は
有田に特注ができなくなりました。
一方で九谷村の窯は、すでに稼働していました。
絵付けの試みも、独自に進められていたと思われます。
今も数少ないながら残る「九谷素地、九谷絵付け」の
古九谷が生み出されたのは、このころでしょう。
有田に特注ができなくなりました。
一方で九谷村の窯は、すでに稼働していました。
そこでは素地作りだけでなく“五色”による
絵付けの試みも、独自に進められていたと思われます。
今も数少ないながら残る「九谷素地、九谷絵付け」の
古九谷が生み出されたのは、このころでしょう。
しかし第一六二話でも触れたように、
九谷窯の素地作りはあまりうまく行かず、
製品に使える白磁の量は限られていました。
一号窯が使われなくなったという1670年ごろまでには
九谷素地による古九谷製作は断念されたと考えます。
以後、素地は全て有田製になりました。
九谷窯の素地作りはあまりうまく行かず、
製品に使える白磁の量は限られていました。
一号窯が使われなくなったという1670年ごろまでには
九谷素地による古九谷製作は断念されたと考えます。
以後、素地は全て有田製になりました。
なお、九谷窯に隣接する九谷A遺跡の上絵窯は
試験製造用に過ぎず、本格的な絵付けを行う上絵窯は
大聖寺城下にあったと思います。
実際そういう伝承もあります。
有田素地をわざわざ山奥に運ぶメリットはなく、
上絵窯だけなら街中の方が当然便利です。
試験製造用に過ぎず、本格的な絵付けを行う上絵窯は
大聖寺城下にあったと思います。
実際そういう伝承もあります。
有田素地をわざわざ山奥に運ぶメリットはなく、
上絵窯だけなら街中の方が当然便利です。
1660年代、70年代、80年代は
過ぎ去った桃山の豪放さが残りつつ、
近づく元禄の華やかさも薫ってくる、
そんな時代でした。
過ぎ去った桃山の豪放さが残りつつ、
近づく元禄の華やかさも薫ってくる、
そんな時代でした。
そうした時代相を色濃く現し、
中国陶磁の直接的な影響を脱した色絵磁器が、
“奇跡の五色”を使って
作られたのではないでしょうか。
中国陶磁の直接的な影響を脱した色絵磁器が、
“奇跡の五色”を使って
作られたのではないでしょうか。
1667年発行の「新撰御ひいながた」と青手古九谷 (第一六〇話参照)
第一六七話 ◆ 仮説③ 委託生産の終了
佐賀藩にとって色絵磁器は、
幕府への献上や海外貿易のためのものでしたが、
加賀藩は自分たちが欲しかったのだと思います。
最上手古九谷は松ヶ谷と違って
江戸城から出ずに加賀や大聖寺の藩邸跡から出ます。
輸出にほとんど使われず、主な伝世地は地元北陸です。
幕府への献上や海外貿易のためのものでしたが、
加賀藩は自分たちが欲しかったのだと思います。
最上手古九谷は松ヶ谷と違って
江戸城から出ずに加賀や大聖寺の藩邸跡から出ます。
輸出にほとんど使われず、主な伝世地は地元北陸です。
贈答には使ったでしょうが、それは藩内での下賜が
多かったのではないでしょうか。
だからあまり外には広がりませんでした。
多かったのではないでしょうか。
だからあまり外には広がりませんでした。
1640年代に有田への委託生産から始めた
「奇跡の五色プロジェクト」ですが、
自前でも作りたくなったのは当然の流れでしょう。
1650年代に有田にならって窯を九谷に築き、
試験的な製造を始めます。
「奇跡の五色プロジェクト」ですが、
自前でも作りたくなったのは当然の流れでしょう。
1650年代に有田にならって窯を九谷に築き、
試験的な製造を始めます。
ほどなく重大な転機が訪れました。
1659年、有田が本格的な海外輸出に舵を切ります。
色絵磁器の絵付けは赤絵町に集約され、
生産方針が大きく変わったのです。
1659年、有田が本格的な海外輸出に舵を切ります。
色絵磁器の絵付けは赤絵町に集約され、
生産方針が大きく変わったのです。
色調を穏やかにした初期輸出色絵
画像:東京国立博物館 http://webarchives.tnm.jp/
画像:東京国立博物館 http://webarchives.tnm.jp/
統一した方が効率的だったのでしょう。
自ら主導したスタイルでなかったからこそ、
有田はあっさりと“五色”を
捨て去れたのではないでしょうか。
有田はあっさりと“五色”を
捨て去れたのではないでしょうか。
一方、“五色”にこだわる加賀は
自前の九谷窯に注力せざるを得なくなりました。
第一六六話 ◆ 仮説② 加賀と佐賀の違い
第一六五話 ◆ 仮説① 加賀藩の依頼
初期段階の“奇跡の五色”でしょうか。
まだ泡立ったりして絵具として安定していませんが、
すでに色調はほとんど完成しています。
五色は有田でおそらく祥瑞手に続いて開発が始まり、
1650年代前半までに完成しました。
では、開発の「言い出しっぺ」は誰だったのか?
もちろん第一に佐賀藩(鍋島家)が考えられます。
完成した色を実際に松ヶ谷作品に用い、
江戸幕府への献上品としています。
しかし古九谷については、五色グループでない祥瑞手を
除いて、鍋島家が活用した形跡は見当たりません。
そこで「加賀藩(前田家)が依頼した」と
仮定したらどうでしょうか。
鍋島家(親戚筋です)をきちんと通し、
多額の開発費用を引き受け、その成果(色)は
有田でも自由に利用してよいという条件ならば、
十分あり得るのではないでしょうか。
単に出資するだけでなく、温和な中国の五彩と異なる
強い色調を指示し、出来上がったのが“奇跡の五色”。
そう考える方が、最上手の色絵古九谷が大名屋敷では
加賀藩、大聖寺藩邸跡からしか出土しないこと や、
古九谷伝世品が加賀周辺に多く伝わったことへの
説明がつきます。
明るく穏やかな色彩を展開する伊万里の伝統の中で、
古九谷の強い色が異質であることの謎も解けます。
有名な柿右衛門家文書には、正保四(1647)年に初代が
初めて色絵磁器(祥瑞手?)を売った相手が
加賀藩の御買物師だったと記され、バイヤーとしての
存在の大きさが知られています。
加賀藩が古九谷生産のパトロンだった可能性は、
荒川正明氏や大橋康二氏など複数の有田側論者も
言及しています。
まだ泡立ったりして絵具として安定していませんが、
すでに色調はほとんど完成しています。
1650年代前半までに完成しました。
では、開発の「言い出しっぺ」は誰だったのか?
完成した色を実際に松ヶ谷作品に用い、
江戸幕府への献上品としています。
しかし古九谷については、五色グループでない祥瑞手を
除いて、鍋島家が活用した形跡は見当たりません。
仮定したらどうでしょうか。
鍋島家(親戚筋です)をきちんと通し、
多額の開発費用を引き受け、その成果(色)は
有田でも自由に利用してよいという条件ならば、
十分あり得るのではないでしょうか。
強い色調を指示し、出来上がったのが“奇跡の五色”。
加賀藩、大聖寺藩邸跡からしか出土しないこと や、
古九谷伝世品が加賀周辺に多く伝わったことへの
説明がつきます。
古九谷の強い色が異質であることの謎も解けます。
初めて色絵磁器(祥瑞手?)を売った相手が
加賀藩の御買物師だったと記され、バイヤーとしての
存在の大きさが知られています。
荒川正明氏や大橋康二氏など複数の有田側論者も
言及しています。
第一六四話 ◆ 論点整理
“奇跡の五色”を切り口に、20話以上を費やして
古九谷問題の現状を見てきました。
最新の発掘や研究の成果も踏まえて導き出した
重要なポイントを、ここで整理してみます。
古九谷問題の現状を見てきました。
最新の発掘や研究の成果も踏まえて導き出した
重要なポイントを、ここで整理してみます。
“奇跡の五色”は
① 有田、九谷の両方で見つかっている
② 古九谷だけでなく、松ヶ谷にも使われている
③ 開発されたのは1640~50年代半ばの有田
④ 有田で使われたのは1660年前後まで
⑤ 九谷に現れたのは1650年代半ば以降
① 有田、九谷の両方で見つかっている
② 古九谷だけでなく、松ヶ谷にも使われている
③ 開発されたのは1640~50年代半ばの有田
④ 有田で使われたのは1660年前後まで
⑤ 九谷に現れたのは1650年代半ば以降
「古九谷は全て伊万里」説が成り立つには
では結局、古九谷とは何だったのか。
五色はなぜ有田と九谷をまたがって存在したのか。
伝世品はどうして加賀周辺に集中して残ったのか。
五色はなぜ有田と九谷をまたがって存在したのか。
伝世品はどうして加賀周辺に集中して残ったのか。
史料や物証はまだ足りませんが、
仮説なら何とか立てられそうです。
仮説なら何とか立てられそうです。
新しい証拠が出ればあっさり覆るかも知れません。
それは覚悟の上で、これまでの考察をベースに
仮想ストーリーの一例を提示してみたいと思います。