第一六三話 ◆ 素地移入説
素地移入説とは有田から白磁を取り寄せ、
九谷で絵付けをして色絵磁器を作ったとの考え方です。
嶋崎氏がこれを唱えたのは昭和40年代かと思いますが、
長年、有田側からは「ありえない」で片付けられ、
九谷側でも賛否両論、という扱いを受けてきました。
九谷で絵付けをして色絵磁器を作ったとの考え方です。
嶋崎氏がこれを唱えたのは昭和40年代かと思いますが、
長年、有田側からは「ありえない」で片付けられ、
九谷側でも賛否両論、という扱いを受けてきました。
しかし「1660年代以降にも“奇跡の五色”で
古九谷が作られていた」と仮定した場合、
説明のつく仮説は、現時点で他にないと思います。
古九谷が作られていた」と仮定した場合、
説明のつく仮説は、現時点で他にないと思います。
有田にはその時代、もう“五色”がない。
九谷では素地作りがうまくいかないが“五色”はある。
ならばどうしたか、ということです。
九谷では素地作りがうまくいかないが“五色”はある。
ならばどうしたか、ということです。
嶋崎氏が初めて素地移入説を提唱した当時よりも、
今はだいぶ研究が進んでいます。
今はだいぶ研究が進んでいます。
第一六二話 ◆ そのころ九谷は

(九谷古窯跡発掘調査報告書より)
画像は旧九谷村のお宮にあった染付花瓶の残欠で、
九谷古窯の初窯時に奉納されたと伝えられています。
明暦元(1655)年という年紀があり、
発掘資料などから見ても、九谷古窯はこのころに
始まったと思われます。
九谷古窯の初窯時に奉納されたと伝えられています。
明暦元(1655)年という年紀があり、
発掘資料などから見ても、九谷古窯はこのころに
始まったと思われます。

(九谷古窯跡発掘調査報告書より)
窯跡は2基ありますが、色絵古九谷を考える上で
対象になるのは一号窯です。(二号窯は出土品や構造
などから主に茶陶用だったと考えられています)。
対象になるのは一号窯です。(二号窯は出土品や構造
などから主に茶陶用だったと考えられています)。
一号窯の物原の堆積を見ると、時間を追って
青磁→半磁胎の白磁→陶器となっていたそうで、
嶋崎丞・現石川県立美術館長は、
窯の焼成温度が上がらず磁器の製造能力がなくなったと
考察しています。(日本の陶磁13 九谷 より)
熱残留磁気の測定によれば、
一号窯が使われたのは1670年ごろまででした。
青磁→半磁胎の白磁→陶器となっていたそうで、
嶋崎丞・現石川県立美術館長は、
窯の焼成温度が上がらず磁器の製造能力がなくなったと
考察しています。(日本の陶磁13 九谷 より)
熱残留磁気の測定によれば、
一号窯が使われたのは1670年ごろまででした。
嶋崎氏はこうした事実から、
有田から九谷への素地移入説を提唱しつづけています。
有田から九谷への素地移入説を提唱しつづけています。
第一六一話 ◆ そのころ有田では
第一六〇話 ◆ 複数の状況証拠
絵には時代性が表れます。
“奇跡の五色”で描かれた古九谷の絵については、
戦国の気風を残した江戸初期らしい豪放さや奇抜さが
よく指摘されます。その年代をもう少し
絞り込んでいくことはできないでしょうか。
“奇跡の五色”で描かれた古九谷の絵については、
戦国の気風を残した江戸初期らしい豪放さや奇抜さが
よく指摘されます。その年代をもう少し
絞り込んでいくことはできないでしょうか。
調べてみると、古九谷の絵のバックグラウンドと
されるものの中には、1660年代以降(寛文~延宝ころ)に
参照されたとも思えるものが、複数存在します。
されるものの中には、1660年代以降(寛文~延宝ころ)に
参照されたとも思えるものが、複数存在します。

「八種画譜」 より
例えば、古九谷に多くの図が引用されたことで知られる
中国の「八種画譜」。古九谷の絵師は、
いつごろこれを利用できたのでしょうか。
日本で同書が出版されたのは、寛文十二(1672)年。
実は1670年代に入ってからなのです。
(ですから柿右衛門にも使われています)。
中国の「八種画譜」。古九谷の絵師は、
いつごろこれを利用できたのでしょうか。
日本で同書が出版されたのは、寛文十二(1672)年。
実は1670年代に入ってからなのです。
(ですから柿右衛門にも使われています)。

「新撰御ひいながた」 より
第一二六話で、青手古九谷の名作とそっくりな図柄が、
当時の小袖のデザイン集に載っている話を
紹介したことがあります。
その本「新撰御ひいながた」も
発行は寛文七(1667)年です。
こうした奇抜な文様の“寛文小袖”は
元禄期(1688~1704)ころまで作られたとも言います。
当時の小袖のデザイン集に載っている話を
紹介したことがあります。
その本「新撰御ひいながた」も
発行は寛文七(1667)年です。
こうした奇抜な文様の“寛文小袖”は
元禄期(1688~1704)ころまで作られたとも言います。

「聚美」2012年秋号 より
雑誌「聚美」2012年秋号に、東京国立博物館の
今井敦氏による興味深い論稿がありました。
古九谷五彩の上絵具の厚い塗り方に注目した上で、
早い時期の康煕五彩(清初期の色絵)の影響が
あるのではないかと言うのです。
康熙帝の在位期間は1661~1722年。
どんなに早くても1660年代以降ということですが…。
今井敦氏による興味深い論稿がありました。
古九谷五彩の上絵具の厚い塗り方に注目した上で、
早い時期の康煕五彩(清初期の色絵)の影響が
あるのではないかと言うのです。
康熙帝の在位期間は1661~1722年。
どんなに早くても1660年代以降ということですが…。
残念ながら、これらはどれも決め手にはなりません。
「八種画譜」はオリジナルが中国で出たのが1620年代
なので、早い時期に輸入されていた可能性があります。
「新撰御ひいながた」は、ひと時代前の柄を
載せていたかも知れません。
康煕五彩も本当に古九谷に影響を与えたのか、
はっきりしているわけではありません。
「八種画譜」はオリジナルが中国で出たのが1620年代
なので、早い時期に輸入されていた可能性があります。
「新撰御ひいながた」は、ひと時代前の柄を
載せていたかも知れません。
康煕五彩も本当に古九谷に影響を与えたのか、
はっきりしているわけではありません。
しかしこういう“状況証拠”が増えてくれば、
偶然とも言い切れなくなるかも知れません。
1660年代以降にも(当然有田以外で)古九谷が
作られた可能性は、あると私は考えます。
今後の新事実の出現を待ちたいと思います。
偶然とも言い切れなくなるかも知れません。
1660年代以降にも(当然有田以外で)古九谷が
作られた可能性は、あると私は考えます。
今後の新事実の出現を待ちたいと思います。

第一五九話 ◆ 有田以外の可能性
しかし、だからと言って
1660年代以降の古九谷が存在し得ない、
ということにもなりません。
それが「有田以外で作られた」とすれば、
矛盾はしないからです。
当然の論理的帰結ですが、このことは
見落とされがちではないでしょうか。
1660年代以降の古九谷が存在し得ない、
ということにもなりません。
それが「有田以外で作られた」とすれば、
矛盾はしないからです。
当然の論理的帰結ですが、このことは
見落とされがちではないでしょうか。
当たり前ですが、有田の発掘でわかるのは
有田のことだけです。発掘を続ける村上伸之氏も、
いみじくもこう話しています。

「少なくとも古九谷様式が有田で作られたことは、あったと私は言いたいんです。別に、石川にあってもいい。(中略)それはそちらで立証して下さい、ということです」
(九谷もジャパンである 北國新聞社編 2009年 より)
(九谷もジャパンである 北國新聞社編 2009年 より)
産地が九谷かどうかはさておき、
1660年代以降の古九谷は存在するのでしょうか。
1660年代以降の古九谷は存在するのでしょうか。
しかし状況証拠らしき事実、なら
いくらか存在します。
いくらか存在します。
第一五八話 ◆ 伊万里論内の不一致
学界の内情は知りませんが
有田の発掘現場サイドは、矢部氏の言うような
1660年代以降の古九谷の可能性については冷淡です。
有田の発掘現場サイドは、矢部氏の言うような
1660年代以降の古九谷の可能性については冷淡です。
(村上伸之氏 「古九谷」出光美術館 2004年 より)
“今日でも、古九谷が17世紀末頃まで継続したとする考えも、一部には根強い。しかし、(中略)いずれの観点からも、1660年代以降もそのままの姿で古九谷が存続した可能性は残されていないのである。”
“今日でも、古九谷が17世紀末頃まで継続したとする考えも、一部には根強い。しかし、(中略)いずれの観点からも、1660年代以降もそのままの姿で古九谷が存続した可能性は残されていないのである。”
実は、1660年前後から始まっている赤絵町遺跡で
3点だけ、古九谷とされる陶片が出ています。
矢部氏などはこれを貴重視していますが、
発掘にあたった村上氏はにべもありません。
3点だけ、古九谷とされる陶片が出ています。
矢部氏などはこれを貴重視していますが、
発掘にあたった村上氏はにべもありません。
(矢部良明氏 「世界をときめかした伊万里焼」2000年 より)
“幸運にもその場に立ち会っていたのだが、筆者が到着する数分前に、れっきとした青手古九谷様式の陶片が柿右衛門様式の陶片に混じって出現したのであった。その奇遇に直面して、長い間世論を沸かせてきた古九谷伊万里論者の一人として、矢表に立ってきた筆者は、ぐっと喜びをこらえて、有田の谷を睨んだものであった。”
“幸運にもその場に立ち会っていたのだが、筆者が到着する数分前に、れっきとした青手古九谷様式の陶片が柿右衛門様式の陶片に混じって出現したのであった。その奇遇に直面して、長い間世論を沸かせてきた古九谷伊万里論者の一人として、矢表に立ってきた筆者は、ぐっと喜びをこらえて、有田の谷を睨んだものであった。”
(村上伸之氏・小木一良氏対談「小さな蕾」1998年7月号 より)
“小木 赤絵町遺跡出土の三片の盛期古九谷陶片については、村上さんは他からの混入と言われているが、誤解している人が非常に多い。
村上 最初から言ってるんですけどね。出土層位は新しいし、素地もまったく出土していない。それに、他の製品と技術が違い過ぎます。”
“小木 赤絵町遺跡出土の三片の盛期古九谷陶片については、村上さんは他からの混入と言われているが、誤解している人が非常に多い。
村上 最初から言ってるんですけどね。出土層位は新しいし、素地もまったく出土していない。それに、他の製品と技術が違い過ぎます。”
村上氏によれば、問題の陶片は
18世紀後半ごろの層から出ているのだそうです。

赤絵町遺跡
(有田町教育委員会 「赤絵町」 1990年 より)
第一五七話 ◆ 消滅後の“最盛期”
彼は著書の「世界をときめかした伊万里焼」(2000年)で
古九谷の生産時期についてこう書いています。
古九谷の生産時期についてこう書いています。
“1640年代の後半に始まり、1690年代から1700年前後まで続く、約5、60年ほどの間の作と判断するのが自然のようであり、1660~70年代が最盛期であったようだ。”
同書によれば、亀甲文の入った五彩手の大平鉢は
1670年代の作です。
1670年代の作です。

別の著書では、有名な青手樹木文平鉢を
元禄時代(1688~1704)の作としています。
元禄時代(1688~1704)の作としています。

(矢部良明著 染付と色絵磁器 1991年 より)
では発掘結果が間違いだと考えているのかというと
そうでもなさそうで、
“発掘調査の事実がもつ説得力は強力であり、
『待ったなし』の迫力をもっている。”
とも言っています。 (古美術緑青vol6 1992年 より)
そうでもなさそうで、
“発掘調査の事実がもつ説得力は強力であり、
『待ったなし』の迫力をもっている。”
とも言っています。 (古美術緑青vol6 1992年 より)
このあたり、伊万里説の権威者の論としては
説明不足ではないかと思います。
説明不足ではないかと思います。




